時刻は午前二時頃。
洋灯の光が壁に大きな影を作り出している。がりがりとペン先が紙の表面を走っていく。自室で机に向かう犬村の背中に、唐突に一人の少女がじゃれついた。
「たつとし」
「何の用だ、シュテン」
振り返りもせず犬村は問う。シュテンはくすりと笑った。
「不機嫌」
「ああ、不機嫌だよ。帰ってくれ」
眠気と疲れのせいか常ならば感じる彼女への恐怖も薄れ、ぞんざいな扱いをしてしまう。しかしシュテンは気分を害した様子はなく、机にぺたんと体を伏せて、犬村の顔を覗き込んだ。
「ずっと仕事してる」
「ああ」
「事務所にも来ない」
「忙しいんだよ」
シュテンは書類のはしを指ではじいた。
「寂しい」
「馬鹿言え」
お前がそんな感傷を持つものか。犬村は眉間のしわを深くする。
「たつとし」
「なんだ」
「構って」
「断る。帰れ」
シュテンの形のいい唇が弧を描く。
「いけず」
「ああそうだな」
生返事を返しながらも書類をめくる手は止めない。ここで休むわけにはいかないのだ。
「たつとし」
「……なんだ」
この期に及んで帰らないのかこいつは。
犬村はシュテンを視界に入れないようにして、ペンを走らせた。
シュテンは机の上をつつ、となぞりながら、何でもないことのように言った。
「好き」
「はぁっ!?」
思わずペンを取り落し、シュテンに視線を戻すと、シュテンは犬村へと目を向けて可愛らしく微笑んだ。
「大好き」
悪戯っぽく言うシュテンに犬村は椅子を蹴って立ち上がった。いつもならば赤面するか、固まるかするしかなかっただろう。しかし今日は怒りが先に来た。
「お、まえはいつもそうだ!」
机にもたれかかるシュテンを上から怒鳴りつける。
「いつもいつもそうやって俺をからかって! 一体何がしたいんだお前は!」
そこまで言って、犬村はぜえぜえと肩で息をした。
シュテンはしばらくそのままでいたが、ふと立ち上がると犬村のみぞおちに鮮やかな一撃を叩きこんだ。
「ぐっ」
くぐもった声を上げ、犬村は床に膝をつく。シュテンはそんな犬村の両頬にそっと手を添えて、上を向かせた。
「心配」
無表情での言葉だった。常に顔に貼りつけている気味の悪い微笑みの無い言葉だった。
「心配してる」
「……え」
犬村はぽかんと口を開け、間抜けな声を上げてシュテンを見上げるしかなかった。
シュテンはぞっとするほど美しく微笑んだ。
「嘘。」
犬村は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。その隙をついて、シュテンは犬村の体を軽々と抱え上げ、寝台へと放り投げた。
「な、何するんだシュテ……」
抗議しようとした犬村の額にシュテンは人差し指をぴとっと触れさせた。
「もう寝ろ」
でないとこのまま頭を叩き割るぞ。
そう言われた気がして犬村は震えながら「はい……」と答えるしかなかった。
寝台に横になった犬村の横にシュテンは腰かける。
「子守唄、要る?」
「要らない。帰ってくれ……」
「寝るまで帰らない」
「隣にいられたら眠れないんだが……」
しかし幸か不幸か疲れのおかげで割と早く睡魔は訪れ、犬村はすぐに瞼を閉じて、寝息を立て始めた。
シュテンはそんな犬村の寝顔を固められた笑顔のまま見つめていたが、ふと興味をなくしたかのように立ち上がると、「帰る」とだけ言い残して、部屋の窓から飛び降りて夜の闇へと消えていった。
余談ではあるが、シュテンが窓を開けていったせいで、犬村は見事に風邪を引いた。