長い長い一日

 犬村辰敏は真面目な男である。真面目すぎる、生真面目であると言い換えてもいい。所属する憲兵隊の性格上、そういう人材が多いことは間違いないのだが、それでも群を抜いて「真面目」であると言わざるを得ない。そんな男である。

 だからこそ犬村の上司、箒木(はばきぎ)は頭を悩ませていた。

 額に手を当てながら、頭痛の原因たる一通の手紙を何度も裏返し、何度もその宛名を確認する。

 ……間違いなく書かれている宛先はこの駐屯地の住所で、宛名は犬村辰敏様となっている。

 あいつに限ってどうしてこんな――。

 大きなため息を一つついた直後、部屋のドアが控えめに叩かれた。

「箒木さん、犬村です」

「……入れ」

「失礼します」

 ドアを開け、きびきびとした所作で机の前まで歩いてきたのは、件の犬村辰敏だ。

「犬村」

「はい」

「俺はお前が真面目なやつだと知っている。いやむしろ、真面目なやつだからこそ、お前に単独任務をさせることが多い。それはお前を信頼していての判断だ」

「はあ」

「だからこそ、なんだが、その……こういうのを職場に送らせるのはどうかと思うんだが」

 箒木は目をそらしながら、犬村に例の封筒を手渡した。犬村は不思議そうにそれを受け取り、何度か裏返して確認している。送り主の名前はない。

「開けてみろ」

 そう促すと、犬村は首を傾げたまま封筒の中身をあらためた。

 

 犬村辰敏さま。

 前にあなたさまにお会ひしてからどれくらいの時が経つたのでせうか。などと恨み言の一つも言ひたくなるほどに時が過ぎたやうに思ひます。

 この頃はあなたさまのことを想ひ、窓の外を眺めるばかりの日々を送つております。どうしてわたくしのことをお避けになるのでせうか。

 是非とも次のお休みの日にお会ひしたく思ひます。

 ×月×日、午前十時に、新宿の駅前でお待ちしております。

酒口いち

 

 有体に言ってしまえば恋文というやつだ。しかもかなり懇意にしている女性が相手だと推測できる。

 読み進めるごとに事態を察したのか、犬村の顔はいっそ面白いほどに青ざめていった。

「シ、シュテ……」

 彼女のあだ名だろうか。犬村は震える声でそう呟く。

 流石の犬村でも、これについては何かしらの言い訳が出るものと思っていた。「知らない」だの「ここの住所を教えた覚えはない」だのそういう言い訳がだ。だがその予想は裏切られることになる。

 手を震わせながら手紙を最後まで読み終わった直後、犬村は音もなく卒倒したのだ。

 

 次に目を覚ますと、犬村は憲兵隊本部の医務室に転がされていた。しばしの間、自分の置かれている状況が理解できずにぼんやりしていた犬村であったが、箒木とのやり取りをはっと思い出すと勢いよく跳ね起きた。

 いっそ全部夢ならよかったのに、と目の間を揉むが、ベッド横の机には件の手紙がある。中身をもう一度あらためるが、やはり差出人は「酒口いち」――おそらくシュテンの偽名となっており、宛名は自分になっている。

 くら、ともう一度気を失いそうになった犬村のもとに、医務室のドアを開け放って駆け寄ってきた男がいた。

「聞いたぞ犬村! お前、職場に彼女からの恋文が届いたんだって!?」

「上本……」

「なんだよお前そういう相手いたのかよ! 水臭いじゃないか俺にも紹介しろよ!」

 犬村の同僚である上本は、いまだベッドから起き上がった姿勢のままの犬村の肩をばしばし叩いた。

「で、で? どういう関係なんだ?」

 にやにやとこちらを覗き込んでくる上本をよそに、犬村はもう一度手紙に目を通して、頭を抱えた。

「行ったら殺される……、行かなくても殺される……」

「どういう関係なんだよ!?」

 至極まっとうな疑問が上本から飛び出る。犬村は考え込んだ。

「どういうって……」

 あの人、シュテンから自分に対する仕打ちを思い返してみる。顔を合わせれば、何を考えているか分からない笑みを向けられ、時には強請られ、時には金を集られ、時には――

 犬村は一つ頷いた。

「恋人ではないことだけは確かだ」

 過去の恩のせいで強く出られず、ぐだぐだな関係を築いていることは間違いないが、恋人ではない。断じてない。犬村は顔を覆った。

「死にたくない……」

「だからどうしてそうなるんだよ、そんなに怖い相手なのか?」

「怖い……」

「お、お前がそんなに怖がるなんてどんな相手なんだよ……あっ、まさかどこかのご令嬢とかか!? その子と仲良くしていると親御さんからものすごく睨まれるとかそういうことか? お前、いつの間にそんな相手たぶらかしたんだ!?」

「いやそういうわけじゃないんだが……」

 もごもごと口ごもる。上本は犬村の手の中の手紙を覗き込んだ。

「それで、お前それ行くのか?」

「死にたくないが行くしかないだろう……」

 休暇申請してくる、と言い残してよろよろと医務室を出ていこうとする犬村の背中を、上本は慌てて呼び止めた。

「あっ! 待て、待て待て待て、犬村! ……まさかとは思うがお前あの私服で行くつもりか!?」

「? そうだが」

 何か問題があっただろうかと犬村は首を傾げる。

「待てーっ! 俺が服貸してやるから! だからあれだけはやめとけ! 頼むから!」

「わ、分かった……」

 両肩を掴んで頭を下げる上本の剣幕に気圧されて、犬村は首を縦に振った。何が何だか分からないが、他人事のはずなのにまるで自分のことのようにほっと息を吐いて笑みを浮かべる上本を見てしまっては、何も言えなくなってその場はそれで終わったのだった。

 

 数日後。新宿駅前。

 犬村は指定された時間の三十分も前に着いて、約束の相手を待っていた。万が一にも遅れるわけにはいかないという判断だ。遅刻でもしようものなら命はない。根拠はないがそんな確信があった。

 ちなみに今日家を出る時にも一悶着あった。

「なあ本当にこっちじゃなくていいのか?」

「そっちじゃダメなんだよ何度言ったら分かるんだよ」

 袖を通そうとしていた可愛らしい動物が縫い付けられたシャツを奪い取られ、代わりに無地の白シャツを渡される。

 だぼだぼのズボンは既に没収され、箪笥の中に戻されてしまっている。代わりに渡されたのはいつもよりも細身のズボンだ。

「だってこっちの方がかっこいいぞ?」

 手に取ろうとした柄物の上着をそっと箪笥に戻される。首を傾げながら不満を口にすると、上本は我慢ならないといった口ぶりで声を上げた。

「ダッサいんだよ、お前の私服は! いい加減自覚しろ!」

 黒の上着を押し付けられながらの言葉に犬村はさらに首を傾げる。

「でも俺の両親もこうだぞ?」

「そりゃお前の両親もダサいんだよ、馬鹿!」

 そうやって声を荒げると、犬村の表情がムッと不機嫌なものになる。それの意味するところを上本は敏感にくみ取った。

「いや、悪かった。お前の両親を侮辱するつもりはなかったんだ。謝る」

 慌てて謝罪する上本の顔をじと、と睨みつける。

 今度両親の写真でも見せてやろうと、犬村が決心した瞬間だった。

 

 そんなこんなで上本の服を一式借りた犬村は、新宿駅前に立っていた。

 腕時計を確認すると、時刻は九時五十九分。待ち合わせの一分前だ。シュテンの姿はどこにもない。

 想定の範囲内だ。アレが俺との約束なんて守るものか。下手をすれば今日一日このまま待たされ続ける可能性だってある。……そうなってくれた方が俺は嬉しいのだけれど。

 もう一度、時計を確認する。十時まで残り四、三、二、一……。

「おい」

「ヒエッ」

 突然、真後ろからかけられた声に犬村は情けない声を上げて飛び上がる。おそるおそる振り返ってみると、目的の人物――少女姿のシュテンがこちらを見上げていた。

 シュテンは鈴を転がすような声で、しかしぶっきらぼうな言い様で犬村を促した。

「行くぞ」

「はい……」

 顎をしゃくってそう指示されてしまえば、選択肢などないようなもので、犬村はちょっと距離を取ってシュテンの後ろをついていくしかなかった。

 

 シュテンに連れていかれた先は銀座駅前のパーラーだった。

 真新しい店内に、落ち着いた音楽がゆったりと流れている。向かい側に座るシュテンの前にはイチゴの乗ったショートケーキと、グラスに盛り合された果物があった。もちろんここの支払いは犬村持ちだ。

 上品な所作でクリームを口に運ぶシュテンを眺めながら、犬村は好きでもない珈琲をすすった。砂糖もミルクも入れていないそれは、当たり前だがとても苦い。

 カップをソーサーに戻しながら、店の中へと視線を走らせる。

 なんだか落ち着かない。心なしかいつもより自分に向けられる視線が多い気がする。やっぱりこの服のせいだろうか。上本め、適当なことを言いやがって。

 それとも――シュテンが美しすぎるのが原因だろうか。犬村はシュテンをちらりと見る。彼女はケーキを食べ終わり、フルーツへと手を伸ばしていた。

 シュテンはまごうことなき美少女だ。千人が千人、そう答えるほどの美少女だ。肩の上まである濡羽色の髪に、色素の薄い瞳。着ているのはいつだって清潔なワンピース。その顔には慈愛に満ちた微笑みが貼り付けられ、それでいて、犬村から見れば「何を考えているのか分からないおそろしい笑顔」を浮かべることもある。まるで精巧につくられた西洋人形がそのまま動き出したかのような、そんな美少女だった。

 そんな彼女がどういう訳か犬村を気に入っている。慕っている、のではなく気に入っているのだ。好かれているわけでもない。多分、つつくと面白い音の出る遊び道具だとでも思われているのだろう。

 はなはだ迷惑な話ではあるが、生憎と犬村はシュテンに大きな恩がある。ついでにシュテンの方が犬村よりもはるかに強い。精神面でも、肉体面でもだ。

 だから今日も犬村は、シュテンの遊び道具に甘んじる他ないのだった。

 

 頼む、早く終わってくれ……。

 内心の懇願を嘲笑うかのように時間が進むのは非常に遅かった。壁に掛けられた時計を睨みつけても、時間の進みが早まるはずもない。肩を落としてため息を吐こうとしたその時、向かいに座る彼女から尊大な一言が飛んできた。

「おい」

「は、はいっ」

 慌てて居住まいを正すと、彼女は盛り合されたフルーツのうちの一つを、フォークでついてこちらに差し出してきた。

 食べろ、という意味だろうか。

 ちら、と机の向こう側のシュテンを窺うと、フォークの先をゆらゆらと上下させながら、口元だけでにやにやと悪戯っぽく笑んでいる。

 食べろという意味なんだろうなあ。

 犬村はうんと考えたあげくに、差し出されたフォークごと受け取って、フルーツを口に運んだ。

 差し出されたのはよく熟れた桃だった。噛み締めるごとに口の中にみずみずしい果汁が広がっていく。

 美味しい。美味しいんだが。

「食べた気がしない……」

 俯きながらぼそっと呟いたのを聞かれたのか聞かれなかったのか。とにかくシュテンは犬村の行動がお気に召さなかったようで、肘を突いて手を差し出したままの姿勢で「臆病者めが」と吐き捨てた。

 

「シュテン。あの、次はどこに……」

 パーラーを出た後、シュテンは再びどこかへと歩き出した。犬村はその後ろをゆっくり着いていくことしかできない。犬村がどれだけ声をかけてもシュテンは無言のままだ。犬村は淡々と歩くシュテンの後ろ姿をぼんやりと眺めた。

 見れば見るほど完璧な美少女だ。

 季節感のまるでないサンダルをこつこつと鳴らして、肩上で切りそろえられた黒髪を風に遊ばせる。十五年前のあの日のように滅多なことでは振り返ってはくれないので、どんな表情をしているのか窺うのは難しい。犬村は目を細めた。

 こうしていると昔に戻ったみたいだ。彼女に手を引かれて歩いた夢みたいなあの日のようだ。

 自分よりずっと背の低いシュテンを背を丸めて追いかけていると、何の前触れもなく唐突に彼女は立ち止まった。慌てて犬村も足を止めると、シュテンは半分だけ振り返り、犬村に対して薄く微笑んだ。ヒッ、と情けない声が上がりそうになる。

 訂正する。昔よりずっとずっと恐ろしい存在だこれは。

 ふい、とシュテンが顎で示した先にあったのは五階建ての百貨店だ。休日だけあって家族連れでにぎわっている。

 さらなる散財の予感に犬村は口の端を引きつらせた。

 

 シュテンは百貨店の様々な売り場を大して興味もなさそうな顔でうろうろと見てまわり、とあるかんざし屋で足を止めた。

 犬村にはこういうものの善し悪しが分からない。どう見比べても、どれも同じに見えてしまうのだ。仕方なくシュテンと一緒になって色とりどりのかんざしをぼんやりと眺めていると、店員が一人歩み寄ってきた。

「いらっしゃいませ。お二人は……ご兄弟ですか?」

 シュテンは顔を上げると、にこりと店員に笑いかけた。

「恋人です」

 全身に怖気が走り、犬村は硬直した。

 さらっととんでもない発言をしてくれたシュテンを、まるで化け物を見るような目で見てしまう。

「あらまあ、うふふ、そうなんですねえ。じゃあ彼からのプレゼントということになるのかしら」

 シュテンは無言の微笑みで返した。犬村は依然硬直したままだ。

「それではどちらにいたしましょうか。ご希望はありますか?」

「特には」

「ではこちらでおすすめを挙げさせていただきますね」

 そこでようやく正気を取り戻した犬村は、机の上に置かれたかんざしの値札にさりげなく目を走らせる。……ぎりぎり手持ちの金でなんとかなりそうだ。

「そうですね、お客様は普通のかんざしをするにはちょっと髪が短いですしね……」

 店員はうーんと考え込んでみせた後、はっと気づいた顔をした。

「あっ」

 店員は店の奥から、銀色の柔らかい金属でつくられた髪留めを持ってきて、シュテンに差し出した。

「カチューシャ留めはいかがです? 今、流行りなんですよ」

 

 銀色のカチューシャ留めをつけたシュテンの後を犬村は歩いていく。どうやらまだまだこの拷問は続くようだ。随分と軽くなった財布の中身を思って、こっそりため息を吐こうとしたその時、聞き覚えのある声が犬村を呼び止めた。

「あれ? 犬村さん?」

 一瞬硬直したあとにおそるおそる振り返る。そして、今一番、見つかりたくない子に見つかってしまったのを理解した。

「やっぱり! 今日は普通の服着てるから一瞬誰かと思いましたよー」

「あ、あおいちゃん……」

 振り返った先にいたのは薮内あおい。シュテンが働く事務所によく出入りしている女学生だ。自然と犬村とも顔見知りということになる。あおいは犬村とシュテンを小動物のような動作できょろきょろと見比べた後、にやりと笑みを浮かべた。

「あれあれぇ? もしかして、逢瀬ですかあ?」

 にやにやと笑むその様子は、あおいの師匠であるあの男を彷彿とさせる。なんだか日に日にあの男に似てきてないか、と犬村は無駄な心配をしてみる。

 あおいはなかなか答えを返さない犬村に飽いたのか、傍らのシュテンの顔をじっと見つめていた。

「何か?」

 シュテンが鈴を転がすような声でそう言い、首を傾げる。あおいはシュテンの顔を見つめながら問いかけた。

「もしかしてなんですが……一助さんのご兄弟です?」

 まずい。一番聞かれたくないことを突っ込まれてしまった。

 言い訳をしようにもいい言い訳が思い浮かばず、犬村は背中に冷や汗をかいたままあさっての方向を向くしかなかった。

 そうしているうちにシュテンはあおいに向かってにこりと微笑んだ。幸いにもそれだけであおいはうまく勘違いしてくれたらしく、パンと手を打って一人で納得している。

「やっぱり! 雰囲気が似てると思ったんですよねー!」

「あ、ああ、うん」

 適当に話を合わせると、あおいはぱっと爽やかな笑みを浮かべた。

「じゃあ私、お暇しますね! 馬に蹴られたくありませんし!」

 たたたっと駆け出しかけて、ふと思い出したかのように振り返ったあおいは、自分の頭をとんとんと指さした。

「あっ、カチューシャお似合いですね!」

 

 あおいと別れて十数分。こつこつと足音を立てて歩くシュテンの後ろを、うんざりとした面持ちで犬村は追っていく。

「まだ行くのか……」

 ぼそっと呟いた言葉を聞かれてしまったのだろう。シュテンは踊るように犬村を振り返り、にこりと微笑んだ。

「ヒィ……」

 顔色を真っ青にしながらも着いていくと、シュテンが犬村を連れてきたのは、大通りに面した大きな劇場だった。看板には本日の演目が掲げられ、満員御礼ののぼりも立っている。どうやらもうすぐ開演時間のようだ。

 迷わずすたすたと劇場の中に入っていこうとするシュテンを、犬村は慌てて呼び止めた。

「ま、待て、流石に当日券は……」

 もう残っていないだろう、と続けようとした言葉を遮り、シュテンはどこからともなく二枚のチケットを取り出した。

「ウラがくれた」

「え」

「お前らで観てこいって」

「どういう」

 シュテンが疑問に答えてくれるはずもなく、あれよあれよという間に客席へと連れてこられ、舞台の幕は上がっていった。

 演目はよくある悲劇だった。愛し合う二人が引き離され、来世での再会を願って心中する。そんな内容だった。

 シュテンは珍しく熱心に芝居に見入っているようだった。いつものぎらぎらとした眼差しではなく穏やかな眼差しで、しかし舞台からは目をそらさずにいる。

 犬村はそんなシュテンの横顔をそっと窺った。

 肌は白く、血の気がない。しかし唇はまるでさくらんぼのように赤く艶やかで、常ならば浮かべている微笑も今は消えている。真っ黒なまつげは長く、時折思い出したかのようにまばたきをしている。

 ……こいつでも感動して泣くこともあるのだろうか。

 そんな益体もないことを考えていると、シュテンは犬村の眼差しに気付いたようで、ちら、と犬村に視線を向けようとした。

 犬村は慌てて舞台に目を戻した。

 

「疲れた……」

 裏島正雄の事務所へとシュテンを送り届け、犬村はがっくりと肩を落とした。事務所には裏島はおらず、犬村とシュテンの二人きりだ。

「じ、じゃあ俺は帰るから……」

 どもりながら後ずさり、ドアを開けようとしたその時、シュテンは犬村に背を向けたまま口を開いた。

「おい」

「はいっ」

 犬村は飛び上がるように背筋を正す。シュテンはそんな犬村につかつかと歩み寄ると、滑らかな動きで犬村の足を払い、倒れてきた犬村の胴体を掴んで肩の上に担ぎ上げた。

 ――俵抱きの姿勢だ。

「ちょ、なっ」

 動揺する犬村を担いで、シュテンはすたすたと歩き出す。犬村はハッと正気を取り戻すと、シュテンの肩の上で暴れ出した。

「お、下ろせ!」

 しかし手足が両方浮いている以上、なすすべはない。犬村は見る見るうちに青ざめていった。

 こ、こんなところを裏島やあおいちゃんに見られたら……。

「下ろせっ、下ろしてくださいお願いします!」

 犬村の懇願を意にも介さず歩いていたシュテンは、ふと足を止めた。

「おい」

「ヒッ」

「敬語、やめろ」

「はいぃ!」

 恐怖で硬直してしまった犬村を易々と運び、シュテンは事務所の奥の仮眠室へと犬村を連れ込んだ。

 どすんとベッドに下ろされ、目を白黒とさせる犬村をシュテンは冷たく見下ろした。

 なんだかよく分からないが酷いことをされる予感がする……!

 ベッドの隅に這って逃げようとする犬村の足をシュテンは掴んで持ち上げる。犬村はバランスを崩して、ベッドへと顔を打ち付けた。

「疲れたって言った」

「へ?」

「寝ろ」

 枕を投げて渡され、犬村は目を瞬かせる。

 たしかにさっき「疲れた」とは言った。

 疲れたなら寝ろ、という意味か?

 まさかこいつに限ってそんな他人のことを気遣うようなことを――

「寝ろ」

「あ、うん……」

 無表情に繰り返され、犬村は自然と頷いていた。

 

 ベッドに横になる。当然ながら眠気はない。疲れたとはいっても気疲れの方で、体力面では全く問題はないのだから。

 ごろりと寝返りをうつと、ベッドのわきに立つシュテンと目が合った。

「眠れないのか」

 視線だけで答えると、シュテンは一つ頷いてベッドの上に昇り、犬村に馬乗りになった。犬村の頬が一気に朱に染まる。

「な、シュテン、何を……!」

 シュテンはそれには答えず、這うような姿勢で犬村の下半身から上半身にかけてを、指でゆっくりとなぞっていった。犬村が言葉を失って、ただそれを見つめることしかできない。

 つつつ、と這っていく指は、犬村の胸にまで達し、犬村は浅く息をした。悲鳴を上げたくても上げられない。逃げ出したいのに体が動かない。思考がぐちゃぐちゃになっていく。

 シュテンが顔を寄せてくる。息遣いが分かる。熱い体温を服越しに感じる。

 ――な、なんで俺がこんな目に……。

 羞恥と混乱が臨界に達した犬村は、ふっと意識を手放した。

 

   *

 

「うなされてますね」

「うなされてるな」

 私こと薮内あおいは裏島先生と一緒になって、犬村さんの顔を覗き込んでいました。所用から帰ってきてみたら犬村さんが仮眠室で寝ているだなんて思いませんでした。不思議です。摩訶不思議です。

 犬村さんに布団をかけて、眉間に刻まれていた皺をぐりぐりと伸ばそうとしてみます。

「どうしてここで寝ているんでしょう」

 たしか今日は一助さんの妹さんとデートに行っていたはずですが。

「さあな」

 先生は興味なさそうにそう言うと、いまだに犬村さんの眉間の皺を伸ばそうとしていた私の頭をこつんと小突きました。

「寝かせておいてやろうぜ、こいつも色々と疲れてるんだ」

 それもそうですね。

 犬村さん、せめて今だけでも安らかに眠っていてくださいね。

「お、いちすけ」

 仮眠室から出ると、一助さんが給湯室から出てきたところでした。先生は首を傾けました。

「どうだ、芝居は楽しかったか?」

 先生の問いかけに一助さんは、それはそれはもう美しく、にこりと笑いました。