虫歯の話

「いいかいちすけ。人間ってのは歯磨きをしないと虫歯になるんだ」

「虫歯」

「お前が今なってる歯が痛くなるそれのことだよ」

 一助は頬を押さえながら、裏島の話を聞いていた。

「それなら数日で治るぞ」

「そりゃお前人間じゃないからな」

 人間の姿取ってるだけで、と裏島は付け加える。

 酒口一助は人間ではない。人間の姿を取った鬼である。しかし目の前に座る男、裏島正雄との約束により向こう百年は人として生きることに決めているのだ。

「治るのならいいだろう」

「たまに歯が痛くなって美味いもの味わえなくなってもいいのか?」

 一助は眉根を寄せて、むーと唸った。それは嫌らしい。

「ほら、歯磨き教えてやるからこっち来い」

 裏島は歯ブラシを持って一助を手招いた。――それが命取りになるとも知らずに。

 

 

 ガランガラン。犬村の家の玄関ベルが鳴らされる。ちょうど部屋着から着替えている最中だった犬村は、返事をしながら上着を羽織り、慌てて玄関のドアを開けた。

「よう」

「うーっ」

「……なんでここにいる」

 ドアの向こうに立っていたのは、裏島正雄と少女姿のシュテンの二人だった。

 裏島の手には何故か包帯が巻かれ、シュテンはその上からがじがじと噛みついている。

「入るぞ」

 ずかずかと部屋に入ってこようとする裏島を犬村は制した。

「待て、待て。どうしてここを知ってる。どういう状況だそれは」

「説明するから中に入れろって。俺たちもここで騒ぎたかないんだよ」

「ぐう……」

 渋々と中に招き入れると、裏島は「ほら」と言いながらシュテンを犬村に押し付けてきた。

 咄嗟に抱き留めてみれば、シュテンはそれはそれはもう不機嫌そうな目で犬村を見上げてくる。犬村はヒッと声を上げて怯えた。

「こいつに歯磨き教えてやろうとしたんだけどな、口の中に何か入ってるとこいつ、反射的に噛み砕いちまうみたいなんだよ。それで無理矢理口こじあけて掃除してたんだが今度は指持っていかれそうになってな。流血沙汰になるしこいつは暴れるしで仕方なくお前のとこに連れてきたってわけだ」

「待て。どうして俺なんだ」

「なんでってこいつお前には甘いだろ。感謝しろよ、被害が少ないようにこっちの姿にしてきたんだ」

「噛まれるの前提じゃないか!」

「大丈夫大丈夫」

「この今にも噛みつきそうな奴を何とかしてから言え!」

「うーっ」

 獣のような唸り声を上げてシュテンは犬村を見上げた。

「じゃあそういうことで! あとは頼んだぞ、憲兵!」

「ああっ、ちょっとまっ、あああっ」

 裏島は犬村の手に歯ブラシを押し付けてそそくさと帰っていった。シュテンに寄りかかられた犬村はそれを追いかけることもできず、閉まっていく戸を見つめることしかできなかった。

 犬村は不機嫌なシュテンをひとまず寝台に座らせた。シュテンは犬村を睨みつけている。今にも噛みついてきそうな様子のシュテンを犬村は両手で押しとどめた。

「待て。その、シュテン。ちょっと話し合わないか」

「話し合い?」

 鈴を転がすような可愛らしい声でシュテンは聞き返す。

 おまけにこてりと小首を傾げているものだからこんな状況でなければ見惚れていたかもしれない美少女ぶりだ。

「お前は歯磨きが嫌なんだろう?」

「…………」

 シュテンは無言のまま首肯した。

「俺もお前に歯磨きをしたくない」

 犬村がそう言うと、シュテンはじっと犬村を見つめた。

「だからなんだ。別に歯磨きをする必要はないんじゃないか?」

 指を噛みちぎられるのは御免だ、という本音は隠しておく。

「歯磨きをしたということにして裏島には伝えればいい」

 シュテンは答えなかった。しかし「じゃあそういうことで」と犬村が背を向けると、シュテンは犬村の服の裾をそっと掴んだ。

「……歯が痛いのは嫌だ」

 まるで普通の子供のような言い種に、犬村はこれは本当にシュテンかと彼女をまじまじと見つめてしまった。

 だがいくら瞬きをしてみてもそこにいるのは、あの恐ろしくて美しいシュテンその人だ。犬村はふっと気を失いそうになった。

「おい」

「は、はい、なんでしょう」

「やるなら早くしろ」

 シュテンは犬村の手から歯ブラシを奪い取ると、犬村に向かって取っ手側を差し出した。犬村は泣きそうになりながら、それを受け取った。

 

 寝台に腰かけ、膝の間に座るシュテンを上向かせながら犬村はどうしたものかと頭を悩ませていた。

 最初は向かい合って普通に歯を磨くつもりだった。それをシュテンが「ウラはこうしていた」と言い張り、今の姿勢となってしまったのだ。

 じっと見上げてくるシュテンから目をそらしながら犬村は改めて歯ブラシを握りしめた。

「シュテン、ほら、あーん」

「あー」

 頼む、暴れてくれるなよ……。

 警戒しながら犬村は歯ブラシをシュテンの口の中へと差し入れた。その途端シュテンの目にぎらりと凶暴な光が宿った。

 勢いよくシュテンの口は閉じられ、口に突っ込まれていた歯ブラシは見るも無残に噛み砕かれた。

「ヒッ」

 手元に残った取っ手を見て、犬村は小さく悲鳴を上げた。

 シュテンはもごもごと口を動かした後、口から歯ブラシの残骸を吐き出した。

 床に向かって吐かれたそれは、からからと音を立てて転がっていく。

 下手をすれば自分の指がああなっていたのだ。犬村は顔を青ざめさせた。

「おい」

「はいっ」

「二本目だ」

 どこからともなく取り出した代えの歯ブラシをシュテンは犬村に差し出す。

 犬村は躊躇ったが、「ん」と言いながら威圧してくるシュテンには勝てず、力なく息を吐きながらそれを受け取った。

「なあ、シュテン」

「なんだ」

「どうして噛むんだ?」

「……気になる」

「歯ブラシが口の中にあることがか?」

 シュテンは無言のまま首を縦に振った。犬村は頭を抱えた。

「どうしろっていうんだ……」

 シュテンは犬村を見上げたまま、背中をこちらに預けてくる。その顔の近くに行き場のない両手を彷徨わせていたのが間違いだったのだろう。

 シュテンはうろうろと動く犬村の指を目で追うと、いきなり犬村の左手に噛みついた。

「いだっ、いだだだだ」

 思わず悲鳴を上げるも、シュテンが放してくれる様子はない。

 犬村は半ば死を覚悟したが、左手の指から伝わる痛みは予想よりもずっと少ないものだった。シュテンは犬村の指を甘噛みしていたのだ。

「……美味いかそれ?」

 思わず素っ頓狂な質問をしてしまう。

 シュテンはその問いには答えなかったが、犬村の指を放すこともしなかった。その様は玩具を与えられた猫のようだ。

 なんで今日はそんなに獣みたいなんだ……。

 至極まっとうな疑問を飲み込みながら、犬村は右手に持った歯ブラシを構えて覚悟を決めた。

 どうせ逃げられやしないんだ。これを良い機会だと思って、一気に片付けてしまおう。

 犬村は左手の指を開いてシュテンの顎をこじあけると、その口の中に一気に歯ブラシを突っ込んだ。

「うー」

 シュテンが唸り声を上げ、指を噛む力が強くなる。

 犬村はなるべくシュテンが不快に思わないように慎重に歯ブラシを動かした。まずは噛まれていない右の奥歯から、前歯にかけて。そうしてから右の義手の指を噛ませて、左手を救出し、そのまま左手で左奥歯を掃除した。

 最中、シュテンは不機嫌そうにあーだとか、うーだとか声を上げていたが、想像していたよりはずっと大人しくしていた。

 だがそれも歯磨きが終わるまで。

 全てが終わり、ほっと息を吐きながら歯ブラシを口から抜き去ったその時、シュテンは突然勢いよく顎を閉じ、口の中に入っていた犬村の義手の指に噛みついた。

 バキンッと金属が噛み砕かれる音がした。

「ヒッ」

 おそるおそる右手の指を見てみると、案の定、シュテンの口の中で粉々に砕けていた。

 こんなところに指を入れていたのか。犬村は改めて恐ろしく思いながら、破壊された右手をシュテンの口から抜き去った。

「ええと、シュテン。これが歯磨きだ。……分かったな?」

 シュテンは口の中で義手の破片を弄びながら首肯した。

 終わった……。犬村は脱力して、肩を落とす。

 シュテンがぴょんっと立ち上がり、犬村の胸を掴みあげて、そのまま寝台に押し倒したのはその時だ。

「え……え?」

 動揺して間抜けな顔をする犬村に、シュテンは金具を飲み下してから、にっこりと微笑んだ。

「お前にも歯磨きしてやる」