犬村辰敏は陸軍兵営の外に居を構えている。
これは別に犬村に限ったことではなく、憲兵の軍事警察という性質上、他の軍人と寝食を共にすべきではないと判断される者もいるというだけの話だ。
しかし居を構えると言っても大した家に住んでいる訳ではない。ただの築十年越えの木造住宅だ。
外観は洋風。窓にはガラスが嵌まり、築年の割に隙間風も少ない。そんなアパートメントに犬村は住んでいた。
そしてその職業柄、犬村の家を知る者は少ない――のだが。
「…………」
「…………」
「……何してるシュテン」
アパートメント共同の玄関先に立っていたシュテンはそんなことも分からないのかと鼻を鳴らした。
「雨宿り」
「ああ、そう……」
犬村はがくっと肩を落とすとシュテンの横をすり抜けて中に入ろうとした。が、シュテンはそんな犬村の手首を力強く掴んだ。
「放っておくつもりか?」
急な通り雨にやられたのだろう。シュテンは全身濡れ鼠だった。濡羽色の髪から雫を滴らせながら、首を傾けてシュテンは問う。
「……放っておくつもりか?」
ぎり、と手首を掴む指に力を込められてしまえば、犬村には選択肢は無いようなものだった。
犬村の部屋を言い表すならば、殺風景の一言だ。
小さな台所、食卓、椅子が二つ、仕事用の机、寝台、洋箪笥。あるものといえばそれぐらいだ。
犬村はそんな部屋にシュテンの手を掴んで引き入れ、誰にも見られていないことを確認した後、鍵をかけた。
タオルを引っ張り出してきてシュテンの頭に被せる。そうしてから自分も濡れてしまった上着を脱ぎ、ばさばさと水気を払った。シュテンはそんな犬村に歩み寄る。
「おい」
「……な、何でしょう」
「拭け」
タオルの下から軽く睨みつけられ、犬村は渋々シュテンのタオルに手をかけた。
そのままごしごしと水気を拭う。シュテンは「ぐうう」と唸ったあと、犬村の手を払いのけ、一歩引いてタオルの波から逃げ出した。
「どうした、シュテン」
シュテンはタオルの両端を両手で引っ張りながら、地を這うような声で言った。
「……おい」
「は、はいっ」
「次からはもっと優しくしろ」
「はあ」
自分で髪を拭いた後、シュテンは手を櫛にして髪を軽く整えた。
「おい、たつとし」
「……はい」
「服が濡れてる」
放置するつもりか、と言外に言われる。見れば紺色のワンピースは濡れそぼり、足元にぱたぱたと水滴が落ちている。サンダルを脱いだ素足も雨に濡れて、いかにも寒そうだ。
「着替え」
「はい」
「着替えはないのか」
「着替え……」
犬村は洋箪笥を開けて中身を漁り始めた。そうは言っても大きさの合う服などあるはずもなく、犬村は仕方なくいつも自分の着ているシャツとズボンを差し出した。
「それで我慢してくれ」
「分かった」
すぐにワンピースのボタンに手をかけたシュテンに、犬村は慌てて後ろを向いた。
ボタンが外され、ワンピースが床に落ちる音がする。シャツに腕を通す衣摺れの音がする。犬村は真っ赤になる顔を自覚しながら、ぎゅっと目をつぶってそれをやり過ごした。
「……終わったか」
「ああ、終わった」
「じゃあワンピースを吊るして乾かして……」
振り返った犬村の前にいたのは、シャツのボタンを止めず下着と素肌が露わになったシュテンの姿だった。
「えああっ!?」
慌ててもう一度シュテンに背を向ける。
「ま、前を閉めてくれ!」
「分かった」
再び衣摺れの音が部屋に響く。少し経ったあと、犬村は尋ねた。
「……もう終わったか?」
「終わった」
今度はそろりそろりと緊張しながら彼女の方へと振り返る。そこにいたのは両手足の裾を折り曲げて、少し不機嫌そうに立つシュテンの姿だった。犬村はホッと胸を撫で下ろした。
「どうしてあんなところでびしょ濡れになっていたんだ」
床に落ちたままのワンピースを拾い上げ、ハンガーに引っかける。シュテンは一度キョトンとした顔をしたあと、恐ろしいほど美しく笑った。
「ないしょ。」
「そ、そうですか」
背筋に寒いものが走るのを感じて犬村はそれ以上を聞かなかった。
「はらがへった」
犬村の服に無事着替え終わったシュテンは唐突にそう言いだした。咄嗟に犬村がそれに反応できずにいると、シュテンは犬村のそばにすすっと寄って、その袖をついっと引いて繰り返した。
「はらがへった」
犬村はようやくその意味するところを理解し、「はい……」と力なく頷いた。
ガス式の小さな炊飯器で米を炊く。
いつもは自分の分だけだが、今日は二人分だ。少しだけ増やせばいいかとも思ったが、シュテンは存外に大喰らいであることをすんでのところで思い出し、犬村は成人男性二人分ほどの米を炊いたのであった。
思い出せてよかった、と犬村はほっと胸を撫で下ろす。
もし少ない量の飯を出していようものなら、どんな目で見られるか分かったもんじゃない。蒸気を噴く炊飯器を見ながら犬村はそんなことを考える。
と同時に、ガスコンロに火をつけ、取り出してきた魚の干物を二尾あぶり始めた。
わびしい食事だともんくをつけられるかもしれないが、ないものはないのだから仕方がない。
外にコロッケでも買いに行ってもよかったが、生憎と外は大雨だ。これぐらいの妥協は許してほしいところだ。……それにシュテンをこの部屋に一人で残していくのも不安だというのもある。
飯を盛り、焼いた干物を狭い机の前に座ったシュテンに出す。自分もその向かいに座り、手を合わせた。
「いただきます」
シュテンはじっと目の前に出された飯と魚を見つめていたが、ちら、と犬村を窺うと、たどたどしい動作で手を合わせ「いただきます」と言った。
犬村はそんなシュテンを化け物でも見るかのような目で見ていた。
いただきます? 俺は幻聴でも聞いたのか?
気味の悪さに犬村は思わず手が震え、橋と茶碗を取り落しそうになるが、なんとか気合で押しとどめた。
「食わないのか」
既に一杯目を空にしようとしているシュテンがぎろりと睨みつけてくる。犬村は慌てて自分の食事に手を付けた。
シュテンはあっという間に椀を空にすると、「おかわり」と当然のように犬村に茶碗を突き付けてきた。
「はい……」
最初の数回、犬村はわざわざ台所へ行っておかわりをよそってきていたが、やがて面倒になって炊飯器ごと机のすぐ近くへと持ってきていた。
あまりに淡々と、まるで機械がするかのように食事を飲み込んでいくシュテンに、犬村はふと不安になって声をかけた。
「シュテン、その……美味いか?」
言ってしまってから、何を新妻のようなことを聞いているのだと犬村は我に返ったがもう遅い。犬村は羞恥で顔を赤くした。
しかし幸いにもシュテンはそれには答えず、黙々と飯を口に運んでいる。犬村はそっと胸を撫で下ろした。
米粒一つ残さずきれいに食べ終わったあと、犬村が「ごちそうさま」と言うのを見た後にシュテンもまた「ごちそうさま」と言った。どうやら今日はそういう気分らしい。犬村はそうやって自分を納得させた。
窓の外の雨は止む気配はなく、むしろ激しさを増している。時刻ももう夜と言って差し支えないほどの時間だ。これはこのまま泊まっていく流れだろうな、と犬村は半ば諦めた視線をシュテンに向けた。
シュテンはそんな犬村をまっすぐ見返すと、ただ一言「酒」と言った。
「へ?」
犬村が間抜けな声で返事をすると、シュテンはもう一度「酒」と繰り返す。
……飲みたい、っていう意味なんだろうなあ。
流石に犬村にも察しはついた。だが、相手は十五、六の見た目の少女だ。いくらなんでも酒を飲ませるのには抵抗がある。たとえその中身が自分よりずっと年上の人外だとしてもだ。
なかなか動けないでいる犬村に、シュテンはしびれを切らせたのか、向かいに座ったままの犬村に手を伸ばし、その鼻をきゅっとつまんだ。
「ふがっ」
「台所の戸棚の上から三番目」
シュテンはぞっとするほど美しく微笑んだ。
「あるんだろう。取ってこい」
何故知っている、とは恐ろしくて聞けなかった。犬村は言われるがままに、立ち上がると、戸棚の中にあった酒瓶三本を渋々出してきた。どうせ一本では満足しない。そう判断したのだ。
シュテンは慣れた手つきでビンの蓋を開けると、グラスになみなみと酒を注いだ。
それなりにいい酒だったのに……、と犬村は遠い目をする。
そのまま飲むのかと思いきや、シュテンは犬村のグラスにも同様に酒を注いだ。
「え、シュテン」
お前の分が減るがいいのか、と視線を送る。
それに対してシュテンは「飲め」とだけ返して、自分のグラスをあおった。犬村も自分の杯に口をつける。
「おいしい……」
でもなんでこんな状況で飲んでいるんだ……。犬村は少し泣きそうになりながら杯を傾けた。シュテンは少し目を離したすきに、既に一杯目を空にしていた。
よく飲むな、と多少ぼんやりと熱くなってきた頭でシュテンを見つめる。
おかっぱ頭の美少女が自分の服を折って着て、平然と酒をあおっているという光景は背徳的なものを感じざるを得ない。それ以上に犬村は恐怖を感じてしまっているのだが。
杯を空にしては注がれ、空にしては注がれ、犬村はどれぐらい飲んだのか自分でもよく分からなくなってきていた。
酒は三本しかなかったはずなのに、それ以上の量の酒瓶が床にごろごろと転がっている。
「おい」
「ふぁい?」
まわらなくなった舌で犬村はシュテンに答えた。シュテンはにやにやと笑っている。
「お前、わたしが好きか?」
「えー……」
常ならば怯えの対象となるであろう問いかけにも、犬村はにこにこと笑うばかりだ。
「好いておるか? 子を成したいか?」
シュテンは机に臥せる犬村の顎を人差し指で持ち上げて笑みを深める。
犬村は少しだけ考えた後に、にへらと笑った。
「すきー」
シュテンはきょとんとした顔をしたあと、犬村の顎から手を離し、つまらなそうにその額をつついた。